この一年間、人生で二度目の大量読書期間となっている。中学高校でかなりの本を読んだが、それについで多い。なんなら、大学院で論文を書いていた頃より多い(いいのかそれで)。
はてブで読書の話しをするのは二度目だが、今回は具体的な著書について話すのではなく本を読んで最近感じている瑣末な悩みについて書く。
以前の読書に関する投稿はこれ↓
最近は、ガンガン活字を捕食している状態なので(なにそれ怖い)、特にこだわりなくあえていえば腕が疲れないように重いハードカバーでなく文庫を読んでいるのだが、きちんと記録をつけて見たら二ヶ月で70冊くらいの本を読んでいた(超大作というか分量の多いものはあまり読んでいなかった、物理的に重いからかな)。
でも、記録をつけてわかったのだがその内容をどんどん忘れている。短時間しか物語に触れないこともあると思うのだが、読書管理アプリでその表紙とタイトルを見ても「あ〜…これはクリスマスツリーがキーポイントだったっけ…あ、違うわ…」みたいなことばかりなのだ。いいんだろうか。
アプリはこれを使ってる↓
ティーンエイジャーの時は、触れる本全てに感銘や影響を受けて、そのほとんどがいい思い出で、人生の指針になっていたのに、なにかしら受け取るメッセージがあったのに、今や愚鈍な読書マシーンだ。
確かに、読書という単純作業で自分をろ過、ロンダリングしている一面もあるので、正解といえば正解なのだが…
物忘れが進行しているということなのだろうか…自分が心配。
先日読んだ恩田陸さんの「月曜日は水玉の犬」というエッセイ集が、とても面白かった。ここに紹介される本を読みたくなったので、本を読んでますます本を読みたくなった。でもこれを知人に面白かったよ、と紹介するときに、驚くほど内容について説明できなくて(難解な内容だからではなくて、細部を忘れていて)「おい、自分〜!」と思った。(伝われ)
しかも、「水曜日は水玉の犬」と途中まで話していた(なんでだよ)。
実は、以前までお気に入りの本を繰り返し読むストロングタイプの読書法だったのだが(以前というのは、それこそ二十代の頃とか)、それも最近とスタイルが違うからかもしれない。
今年、二度読んだ本はない。
(ちなみにサリンジャーのフラニーとゾーイーは子供の頃から死ぬほど読んだ)
(読書管理アプリを眺めながら…)
楽園のカンヴァスもよかったな〜…
鳩の撃退法もめっちゃ熱中したな〜…
でも、内容の詳細思い出せないな〜。読んでるようで読んでないのか?
物語の表面をそっと撫でているだけなのかもしれない。
こうやって自分の中に残らない読書って、時間の無駄なのかしら。意味はあるのかしら。そう思っているけど、今日も本を読む(今日は料理しながら短編集を読む)。
電車で本を読んでいるそこの男性、カフェで文庫本広げてる女性、図書館に来ている小学生、みんなはなにを読んでいるのかな。