ayan_no0の日記

0番目のあやん 手紙というかたちの日記

番外編 街を歩く2

写真はない。この街には嫌な思い出があるから。自分をここで慰めたい。

読み進めるのが辛くなる人もいるかもしれないのでご注意ください。

 

大学へ通っていた。実家のある街からその大学へは電車で2時間半の片道。1日5時間ほど通学していることになる。こりゃあ馬鹿馬鹿しすぎる。

私は建築学科へ通う学生だった。ここでは毎週課題としてプレゼンを伴う作品作りが課せられていた。プレゼンのために模型を作る。大きくても1/50サイズ。スタディ中は1/100か1/200。都市計画的な課題では、一つの地域そのものをもっと小さな縮尺で作る。建物の柱は華奢で、飛び出したキャンチレバーは薄く繊細。

大体の模型は、通学中の満員電車で一度ほとんど壊れた状態になり、スタジオ授業の前にいつも慌てて直していた。

全くもって、馬鹿馬鹿しすぎる。

 

ついに(大学のうち1、2年生の間が一番授業が詰まっていたのに大学2年の終わりになってやっと)私は一人暮らしをすることにした。これで通学は30分強になった。

何より大きいのは、下り電車にほんの少し乗るだけだから、ラッシュはなく模型は壊れない。画材屋も近い。もっと早く始めればよかったのだが、金銭的に敵わなかったことと、新生活をダブル(大学生活と一人暮らし)でスタートさせる勇気はなかった。

(本当は高3の春休み、県人会?の寮を見つけていたのだが、見学の日にムードが気に入らなかった)

 

その街は東京のど真ん中に程近い、けれど庶民的な街で、夜は隣町の摩天楼が見えた。

夢を追う芸能人や、むしろ大御所と呼ばれる芸能人の邸宅も多く更には美術大学もあった。漫画家の方もホームタウンにしていたりと、東京県人(東京に通勤通学している隣県の住人)からすると、その街は「東京」を感じさせるのに十分であった。

実際に私の暮らすことになったアパートには、テレビで見かけるようになったお笑い芸人が暮らしていた。

 

私の家はその街を指す名前の駅から、徒歩25分もあった。都内ではある駅から25分も歩けば、別の駅の方が最寄駅となることがほとんどで、私の家もそうであった。つまり、私は「JR〇〇駅が最寄である」と周囲の人に話していたが(なぜならその町に住んでいる、と言うことにプレミアがあり、かつ、ピンときやすいのであった)、本当は近所にメトロの駅が二つもあった(もっとあったかも?)

 

ある秋の日、その日は模型を持っていく必要のない時間割で珍しく身軽な私は膝上のスカートに8ホールブーツをはいて、長袖のTシャツを着ていた。キャンバス地のデカいカバンを肩にかけ、早めの帰宅をしていた。夕方の5時過ぎだっただろうか。

 

JRの駅を南口から出る。北口には有名なカルチャーの発信地となった商店街や大きな病院があるのだが、私の家は南口からひたすら南へ徒歩25分だ。

駅を出るとバスロータリーがあり、人を摩天楼へと運ぶバスが並ぶ。南口を出て左手、つまり東へ行けばお笑いや芝居のライブがよく開催される地域のホールがあった。街の北口方面には小劇場がもっとたくさんあったのだが。

さて、私は南へ。ロータリーの西側すぐには商業ビルがあり、服飾品やスイーツはここで買えば事足りるのだが、貧乏学生が日常的に購入するスイーツは、残念ながら取り扱っていなかった。都会に点在するこの商業ビル、デパートともいうだろうが、これの本社はこの街の北側にあるのだ。

ビルの裏手にある焼肉屋さんで何度も年齢確認をされたことを覚えている。

ビルから化粧品の香りが、扉を抜けて流れてくる。それを右半身に感じながら南へ。道路を挟んで対岸にはマクドナルド。その道を進めば三叉路になりなか卯があった。(今はないかな)このなか卯では、サークルの先輩にご飯をご馳走してやると呼び出されたのに「財布を忘れたから払え」と逆にカツアゲされたことがある。悪いやつだ。

この先輩はJRの駅から南へ15分くらいの場所に一人暮らしをしていて、つまり私の帰り道の途中に暮らしていた。他大学の二期上の先輩であったが、早くからお笑い芸人として事務所に所属していた。当時大学生芸人が流行り始めたハシリだったのだ。私も先輩も同じお笑いサークルに所属していた。演者の先輩と照明音響の私。

なか卯を通り過ぎて五叉路から南西へ伸びる道を選ぶ。そこを進むとフランスの古城と同じ名前のマンションがある。さらに南西へ進むとこの道は道なりに真西へと曲がってしまうので適当なところで左折して、真南へ進む道へ進路を変える。

すると、急に銭湯の煙突が現れる。街並みもすっかり住宅街になっていて、県下のニュータウンに暮らしていた私には、目新しい「古い住宅街」が広がっている。都内特有の幅の狭い路地でが南北に走る。どの家も小さい。

この道を南に進めば青梅街道へとぶつかり、視界は急に開ける。先輩の家もこの辺りにあり、四畳半ワンルームほどで、薄い玄関扉の2階の部屋。サークル終わりにはよく家に連れて行かれた。寂しがりやなのだ。

青梅街道を横断歩道で渡る。そのままマックスコーヒーが入っている自販機のある、さらに細い路地へ入る。

私はよくここで、マックスコーヒーを買った。貧乏学生の日常スイーツである。

 

この道を南下し始めてすぐ左手に、昔の五千円札の肖もなった男性と同じ名前の一貫校がある。偏差値が高い学校ではないが、ここの学生はみな、行儀よく制服を着て、挨拶のできる子が多かった。

そのまま南へ進むと、美術大学がある。

建築学を学んでいた私は、この学校の学生に興味があったのだが、いかんせんいつも人の気配があまりなく(外からあまり様子がうかがえず)、私の大学のように地域に開いた作りにはなっていなかった。あまり幅員の大きくない道路に面した正門には、いつも警備員が立っていて、侵入者を拒んでいた。

 

大学の脇を通り過ぎたところだったと思う。

その日は少なめ、4コマの授業を終えて、でもいつも駅から家まで歩くこの頃が一番疲れていた。

家まであと3分くらいであろうか。それは突然私を襲った。

 

かなりスピードの出た自転車が背後から近づいていた。直前に気配に気がついたが、道の端に十分に寄っていた私はそのまま前を向いて歩き続けた。

すると、急に背後から抱きしめられたのだ。恐ろしくて振り向かなかった。声も上げなかった。そのまま体の前面をまさぐられたが、数秒…だっただろうか、すぐに男は倒して置かれた自転車にまた跨って、勢いよく去っていった。

私は地べたに、へたり込んでずりずりと近所の家の生垣の影に身を隠した。またその男が戻ってくるのではないかと恐ろしくて、あと少し、あと少しの帰り道を進めなかった。

数分経って、閃いた。先輩に来てもらおうと。なか卯の貸しを返してもらおうと思った。

 

「腰が抜けて動けないの、バイクで迎えに来て」

 

そう頼むと、タイミングは味方しなかった。横浜でアルバイト中だから、とのこと。20歳を超えて、しかも歳の近い先輩との電話で、恥ずかしかったけれど号泣した。

 

そうしているうちに、またあの男があらわれた。また自転車に乗ってこちらへ近づいてきた。(今思うと1度目の遭遇のすぐ後に警察に電話すべきだった)

そして、住宅地の生垣によりかかるようにしていた私をもう一度ひと通り好きなだけ触って行った。地獄だ。

今度は私の泣き声が大きかったからだろうか、また男は去って行った。ついさっき切った電話をリダイヤルした。ほとんど嗚咽してばかりの私に「電話切らないで、バイト切り上げたから、帰るよ」と言ってくれた。

 

涙で視界が潤んで何も見えなかった。夕方の住宅街なのに、大都会なはずなのに、全然人通りがなかった。電話の向こうで、先輩は私に話しかけ続けていたが、何も耳に入って来なかった。私はまた来たらどうしよう、とか怖い、とか繰り返していただけだと思う。

10分以上道路に座り込んでいただろうか。やっと立つことができたので、警察に追われる泥棒のように、後ろを見たり振り返ってみたり、電柱の影に隠れてみたり、そんなふうに家にむかった。その間も電話は切られなかった。

夏に咲く芙蓉の花と同じ名前のアパートへ時間をかけて、先輩の声を耳に聞きながら、やっとの思いで帰宅した。

帰宅して、やっと電話を切った後、親やら警察やら、連絡をすることが、とてつもなく心労だったのを覚えている。

 

家に着いてから、泣き疲れて、ただ床に座っていた。カバンにマックスコーヒーが入っていたのを思い出して、飲んだら、顔を洗っていなかったので、唇からしょっぱい涙の味がした。

 

1時間以上経ったか。部屋の扉をたたく音がした。直ぐに先輩だとわかった。部屋には、けたたましい音が鳴るベル(インターホンというかドアベル)がついていたけれど、うるさいから鳴らさないでほしい、と知人には話していた。

ドアスコープを覗くとやはり先輩だった。

でも、手が震えてドアを開けられなかった。人と会うことが怖かった。男性に対面することがなんだか恐ろしくて、それをそのまま伝えた。

 

 

それからしばらくは、ひとりで夜道を歩くのが怖かったのだが、学校やサークルで男性と話すことには、けろっとしてすぐ慣れてしまった。人の記憶は恐ろしいものだ。

先輩にはその後しばらく、そのときの話しでイジられてムカついたのだけど、笑い話に昇華しようとしてくれているようでもあった。

その証拠に詳細については、むやみに話さなかったし、距離の近い他の男性からは私を遠ざけてくれたりもしていた。当時は気づかなかった気遣いを、今感じている。

 

犯人は捕まっていない(少なくとも私に報告はない)。

 

正直なところ、間違った過激なフェミ思想などもないし、男性は悪!みたいには今も思っていない。かつ、これは自分の汚点とも考えていることだが、高校生の時には痴漢被害にも既に遭っていて、それを私の場合はトラウマ化させてもいなかった。真剣に向き合わないようにしていたからかもしれない(一種の防衛本能的に)。

 

もっと然るべき時に、戦える強い女の子でいたかった。今、タイムマシンに乗って、あのときの私を助けてあげたい。

 

私は、あの街が嫌いだ。初めての一人暮らし、先輩と酔っ払って歩いた帰り道、オールの後に帰ってきて食べた朝マック、課題に追われたワンルーム。全部好きだったけど、あの街が嫌いだ。

 

 

※どんよりしたかもしれませんしリアクションしにくいかと思いますが、慰めのスターでも置いて行ってくだされば幸いです。