ayan_no0の日記

0番目のあやん 手紙というかたちの日記

番外編 課長と私

大人には友達って必要ないのでしょうか。

いや、必要ですよね。

 

時折このブログで私の「友人観」には触れていますが、本当に社会人になってからは友達と呼べる人少なくなったなぁと思います。さらにアラサーになってからは周囲の友人が「親」になっていくことで、ますます友達づきあいしている人は減ったなぁ…というイメージです。

 

そんななか、私の数少ない友達のひとりである「課長」の話しをします。

 

なぜって、今日連絡をもらったときすごく会いたそうにしてくれたから、そして私もいま会いたいからです。

 

彼は、私が新卒新入社員で入社した会社で同じ部署にいた、私の世話係(直接の世話係として指示されていないのに、なにかと面倒を見てくれた人)で、当時の役職はチーフだったので、私は「〇〇(名前)チーフ」と呼んでいました。年齢はこちらが23歳(24歳になる年)で、チーフは確か45歳くらい(年齢を聞くといつも「うるさいなぁ」と言われた笑)で、翌年にチーフは「課長」になりました。だから私は彼を「課長」と呼んでいます。

 

私の入社した会社は4月1日から5月いっぱいまで、途中会社イベントのお花見を挟みつつも研修がつづき、かつ、研修は宿泊施設で缶詰になって行うので、6月1日の配属のとき、みな「配属初日っていうより、久々のシャバだ〜」という心持ちなのです。

 

私は多くの同期とは違う趣きの部署に配属となり(実際は最も過酷でブラックであったと自負しているが)花形部署と呼ばれていた場所にたどり着きました。オフィスも、同期が全国に散らばっていったなか、私は品川のオフィスビルの高層階に通勤することになりました。

 

研修中には化粧も簡素化し、見知った顔と寝食を共にし、業務時間外は資格試験の勉強をして過ごしていたのでダル着でいることが多くなり、なんなら地元にいる時より人目を気にしない日々を過ごしていました。

それがどうでしょう、品川のオフィスに通勤し、バリキャリまっしぐらのお姉様方とランチに行くのですから、久々に3cmのヒールから5cm、7cmのヒールへ履き替えて、シフォンブラウスにタイトスカート、沙汰袋と言われかねないデカいバッグから綺麗目なレザーのバッグへ、急にバチッと変更しました。

擬態は上々、うまく行っているようで、お姉様方には可愛がられ、年上の独身男性社員にも大切にしてもらい(こういうのを苦痛に感じる女性も多いかと思いますが私は可愛がられるのは万々歳です)、近隣のIT企業の方に食事会に誘われることもありました。

でも、私のデスクは大学院時代の、研究室のソレにどんどん近づき、デッサン、アイデアのメモ、休みの日に作ったエスキース、短くなったホルダー芯、ダイノックシートサンプル… 

端的に言って、「無茶苦茶騒がしいデスク」でした。

端正なシャツを着ていても、デスクに座れば色鉛筆で髪を束ね、袖はホルダーで書いたデッサンで汚れるので常に腕まくり。就業時間中は小汚い学生のままでした。

 

7月の終わり頃、突然例の課長(当時はチーフ)が声をかけてきました。同じチームでしたが、違う案件担当だったことと、私の(本当の)教育係のバリキャリお姉様がいつも面倒を見てくれていたこともあって初めて言葉を交わしました(あいさつくらいはしていましたが)。

 

「帰る時はデスクこんなに綺麗になるんだね」

 

いつも会社を出るのが遅かったので、珍しく早めに帰ろうとしたら、そう声をかけられました。業務中は雪崩発生注意な私のデスクも、その日の仕事が終われば、ほぼ何も残りません。デスクに物を置いておくことはしないタイプでしたし、この会社では自分のデスクに私物を置く人はほとんどいなかったのです(キャラクターグッズや写真などプライベートなもの)。

 

その次の日の朝、突然「一緒に遊びに行かない?」と声をかけられました。

私は間髪入れずに、また何を言っているのか理解しないまま「はい、行きましょう」と返事しました。

結局何をしたかというと、サンプルの色味を屋外の太陽光で確認するために、オフィスのあるビルの眼下に広がる中庭にいく、という外出でした。

実は業務時間内にビルから出たのが初めてで、しかもその頃私は初めての社会人としての息苦しさを感じ始めていました。新人で、近くに年や社歴の近い社員はおらず、お手洗い以外の離席もできない頃でした。

デカいサンプルを運ばされて、口先では課長へ文句を言いながらも、オフィスから連れ出してくれたこと、隣で勝手にタバコを吸い始めて休憩を始めながら私にサボり方を教えてくれたこと、タイミングがバチっとハマって、私は課長がすぐ好きになりました。

その後はよく、仕事に関するトピック以外にも話しをするようになりました。視察だといって、二人でよく新しいデザインを見に出かけたりしました。課長が業務に煮詰まると、視察という外出に私も連れ出してくれました。

正直に言えば仕事では、私には越えられないハードルをいつも提示してきていたし、休日にはデッサンの宿題を出されたり(仕事としてではなく自己研鑽するよう言われていた)、新しい美術館の企画展があれば、見に行ったか尋ねられることも多かったので休日はありませんでした。

でも課長と仕事の話し、デザインの話しをしているときは、学生時代の友達とアレコレ話しているときと変わらない熱量で話せることが楽しかったですし、実際職場ではこのお陰でみるみる評価されるようになりました。また課長は腕利きとして認知されていたので、「あの人が新人の面倒を見ている」という物珍しさが周りの社員にも、私の印象付けに一役買っていました。

 

社内のコンペで、私と課長が初めて一緒に仕事をしたときには、それが最後まで形になり、仕事で報われる、仕事で勝つという経験をさせてくれました。

 

職場の打ち上げや忘年会、社員旅行では一緒にいる機会が増えました。二人でいるときには敬語を使わない時間も増えました。ますます二人でいることが楽になりました。話しは通じるし、センスも近い。興味のあるものも似ている。飲みたいお酒も似ているし、沈黙も平気。

ずっと一緒に働きたいと思いました。

 

「俺が独立したらお前は来るもんね?」

 

時々課長が他の社員の前で私にこう語りかけるとき、口では「絶対やだよ」と言い返したけど、とても嬉しかったです。連れて行ってくれるのかな、と思えて。

 

2年間同じ場所で働いた頃、私は同期と自分の状況があまりに遠いことと本社での業務の肉体的負荷に体の異変を感じ始めていました。残業中に鼻血を流すことも増え、常に熱が出ているようにボーッとしました。

翌年には同期と同じように、現場へ異動をさせてもらいました。

望んだ異動なのに、送別会では課長と離れるのが悲しくてべしょべしょに泣いてしまいました。その時も「追いかけて異動しようかな」と冗談を言ってくれたのに「絶対に来ないで」と喚いてしまいました。

 

こうして感動の別れ(?)をしたものの、私の異動先は本社にほどちかく、また何かと本社でのプロジェクトに参加させられたのでよく顔を合わせました。飲みにもよく行きました。

 

でもしばらくして、「〇〇課長の下にいたのキツかったでしょ〜」と、よく他の社員に声をかけられたので、私は課長とは対等な友達で、互いに傷つけ合うことはなかったし、永遠の夏休みみたいな関係です、と説明していました。みんなそれを納得した様子で笑って聞いていましたが、ふと私の異動が課長の評価を下げていないといいなと思いました。

 

その後私はまた本社へ異動になり、課長の隣の部署で勤務することになりました。仕事中にもしょっちゅう私の席に遊びにくる課長は、新卒の時一緒に仕事をした課長よりなんだかつまらなそうでした(思い上がりでしょうけど)。

 

5年その会社に勤めてから、私は転職をしました。

会社を辞める時、独立したら〜なんて言っていた課長より先に辞めることになったなんて、合わせる顔がなかったですし、このまま疎遠になったら辛いと感じていました。

 

結果的に課長は昇進して会社を辞めるに辞められなくなりましたし(いい意味で)、今でも新しい発見があれば連絡して、語り合ったり飲みに行ったりしています。コロナ禍の煽りを受けて、顔を合わせることは減りましたが、仕事の相談をしてくれるようになったことは、私の誇りです。

出会った時のこと、なんだかずっと忘れられません。

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(一緒にドライブした葉山にて)

 

課長のお嬢さんが、私が初めての異動をしたころお生まれになりました。彼女は心に問題が起きて、ここ数年特別な場所にいます。外の世界へ触れる挑戦を、もしもすることがあるのなら、そのときには私に触れてほしいなと思っています。私という人間に触れて、課長と過ごす時と同じように永遠の夏休みを過ごしたいなと思っています。

そして、いつかこっそり課長が藝大時代に描いたデッサンを見せてあげたりしたいなと思っています。

 

課長と私は友達

 

永遠の夏休みのなかにいる。