6通目 あのときの私たち
私たちが一緒に過ごした高校時代。
先の手紙で触れたように、私は(あなたはきっともっと素直で良い子だから違うでしょうが)とにかく面倒くさかったのです。
高校生といえば一般的には思春期で、第二次性徴期を終えて、なんだか自分が「ジェンダー」のカテゴリの中に答えを探してしまう時期でした。
高校選びの時、私は中学の同じ部活の二つ上の、「同性でとてもカッコいい先輩」になんだか憧れて、学校を選びました。
友人達にも、その話しをしていました。
その先輩は運動ができて、しっかりしていて、ボーイッシュ、だから憧れている、とみんな考えていたはずです。
全くもってその通りですが、私はもう少し違う目をその先輩に向けていました。
その細い腰、抱き寄せたら片手に収まってしまいそう。
その切れ長の瞳、グッと近い距離で見つめられたい。
その低い声、私の名前を静かに呼んでほしい。
なんだか、自分が女性なのか男性なのか、先輩とどうしたいのか、何をしたいのか。キスしたいのか、抱き寄せられたいのか。
はっきりとわかりませんでした。ただ、純粋に心のつながりを求めていたのではない、ということは確かで、仲良くなりたいとか、おしゃべりをして人となりを知りたい、知ってほしい、などとは思いませんでした。つまり性的にだけ魅力を感じていたのです。
だからこそ私は混乱しました。(ボーイッシュとはいえ)相手は同性の先輩だったからです。
さらに言えば、私は初恋(好意を他人に抱くこと)は幼稚園のときでしたし、両思い(互いの好意を言葉で確認しあったこと)は小学校三年生のとき、四年生の時にはファーストキスでした。でもいずれも異性(私の場合は男性)とでした。
思春期の私はすっかり混乱してしまったのでした。そしてそのまま、「好き」(好意)の意味がわからなくなって、恐ろしくなって、懇意にしたり、親密になること全てから距離を置いてしまいました。面倒くさくなったのです。
そんな折、高校に進学しても、自分が「同級生の○○くん、いい人だな、素敵だな」なんて感じようものなら、「こんなに知りもしないうちから、性的に興味を抱いてしまった、忘れなければ」(実際は全く違って、ただ好感を抱いただけ)などと思ってしまって、誰も好きにならないように気をつけていたという始末なのです。
これは今の今まで引きずっていて、私は同じクラスの人や職場の人を「好きになる」(ここでいう好きになる、は仲良くなるとほぼ同義)ことが、ほとんどできないのです。好きになりすぎることが怖くて、好きになりすぎるとその先には、何か性的なことを求めてしまう気がするからです。
さらに厄介なのは、好きになることができないだけでなく、むしろみんな「嫌いになって」しまいます。
粗を探して、こんなところが嫌いだ、などと人の印象を縛ってしまいます。
私はきっと、高校のクラスメイトだったあなたのことも、一度は「嫌いな人」にカテゴライズしたはずです。
でも、上辺の付き合いを続けるうち、いごこちがよくなり、本当の意味で素直に、懐く意味で「好き」になったのだと思うのです。
私はみんなのことが嫌いで、少し生きづらかったです。
あなたはどうでしょうか。
私は些細で小さなエピソードで勝手にあなたのことを分析するような真似をして申し訳ないのですが、あなたは「人を嫌いになれなくて、生きづらかった」のではないかな、と思うのです。
私の知るあなたは、ネットで知り合った歳上の男性に恋をしていました。
でもその人は、ネットの距離感や女子高生の危うさを、悪用しているような考えの人で、とても無礼でした。
あなたのことを、大切にしているとは言えませんでした。
二人が、世の中でイメージされる「仲の良い恋人同士」になりたいわけではなかったことは、外野なりに理解はしていますが、セフレにしても、SM関係だったにしても、無礼の一言に尽きるような人でした。
ましてや、あなたはその人のことを尊敬している節がありました(振る舞いについてではなく、彼の活動について尊敬している様子だった)。
あなたは彼を嫌いになれなくて苦しかったのではないでしょうか。
人は勝手に、自分を意図しない「気持ち」の中に縛り付けてしまうものなのでしょう。
柔軟にあれ、と今は思いますが、ただの女の子だった女子高生の私たちにはそれができなかったのだと思います。
だから私たちは恋や愛の話をするのが好きでした。好きでしたよね?
今、私があなたと会いたいのは、恋や愛の話をしたいからかもしれません。
------------------------
あー、学校の同級生の男の子と付き合って、自転車の二人乗りして(本当はだめですよ?)、ジュース半分こしながら、海に夕陽が沈むの一緒に見たかったなぁ。同級生を好きになってみたかったなぁ。
今日は真夏日に怯えた部屋の中から、天気図を見ながら
あやより