ayan_no0の日記

0番目のあやん 手紙というかたちの日記

番外編 つぐみになりたかった

今週のお題「本棚の中身」

 

お題に合わせてみんなでブログを書く、楽しい催しがこのはてなブログにはあるようで、超初心者の私も、参加してみることにしました。

男もすなる日記というものを女もしてみむとてするなり、ではなく、皆様もしているお題日記を私もしてみよう、という感じです。

(書いてみるとダラダラと長くなってしまったので、前半は「読書」に関する考察、後半は「思い出の本」について雑記となっていることをここに記しておきます)

 

本棚を眺めてみても、自分を構成する、まあつまり、幼少期や思春期に読んで、いまの自分を形作っている本は、現在の住まいの本棚にはあまりありません。

そういった本のほとんどは、実家にあり、もっといえば処分されてしまったものが多いのが事実です。

例えば、具体図書名と初めて読んだ時期をはっきりと覚えている「思い出の本」がいくつかありますが、手元に実物があるのはなんと2冊だけです。(恐ろしい)

 

説得力がありませんが、本は実物を手元においておいて、何度も読み返すことに大きな「効果」があると思います。

 

私は、大学院生をしていたときに、学習塾でアルバイトをしていました。二つの塾でアルバイトをし、一つは集団授業型で一度に20人程度の中学生に数学を教えていました。もう一つは個別指導型で、一度に二人の生徒を相手に数学や物理、化学などを教えていました。

後者の塾では生徒たちとの心理的距離が近く(と言っても、私は他の講師に比べかなり距離をとっているタイプでしたが)、授業の合間に趣味の話し、学校生活の話しをすることが常でした。また、こちらの塾では(あくまで私の働いていた個別指導塾では、という話しですが)、生徒のほとんどが学校の授業と足並みを揃えられず学力はかなり両極端に偏差していました。つまり、学校の授業よりもずっとずっと先の範囲を、かなりの吸収力で進められるものと、とてもじゃないが学校の授業の内容など理解できず、着席していることすら困難なもの、といった具合です。

個別指導塾へ子供を通わせる保護者の中には、託児所的な意味合いを込めて月謝を払っている方がいたと認識しています。つまり、小学校を卒業した子供は放課後の遅い時間、部活が終わると自宅で保護者の帰宅を待ちます。しかしながら、一人で留守番をすることに懸念のある子供が一定数いるわけです。懸念点は人それぞれで、正直いって他人のこちらからすれば放っておいて問題ない程度のことから、一人にしておくと火事や犯罪に巻き込まれる危険のあるようなことまで様々でした。

話しが逸れていますが、こういった個別指導塾で働いているとき、多くの子供がちょうど「本を読むようになった」ことをよく記憶しています。

重要な点は、以前から本を読んでいた子供はあまりいなかったという点です。本を読むという(個人的には)とても楽しく手軽な趣味は、実は多くのリソースを必要としているということに気がつきました。例えば、絵本でも辞書でも、何でも構いませんがあるひとかたまりの文章、最低でも一文節くらいは、一続きに読まないと意味のある形にはならないことから「一文を読む集中力が必要」なのです。読書家の方には何をいっているのか分からないかもしれませんが、定期テストの問題文を読みきることができないものもいる、ということです。英文法でいう、第1文型が限界なのです。その中に指示詞があれば、今度は短期的な記憶力が必要になります。「その」とは何であったか、記憶の中から探して判断しなければなりません。

ごちゃごちゃしてきたので、端的にまとめると、「読書は楽しいよ」と勧めても、またそれによって読書に挑戦しようとしてくれても、「読みきる」ことは容易ではない人たちが多くいるということです。

私が、読書についてなぜこうもこねくり回して思考していたかと言うと、数学を教えている場面で、国語的な文法解説をしている時間が非常に多かったからです。とても煩わしく感じていました。

「私は数学ができないから文系」、「理系の人は分脈を理解できない」

こういったことを、昨今は急に聞かなくなりましたが、10年ほど前はよく耳にしていた気がします。数学は文法であるし、理系科目ほど美しい文章はないと思っている私としては、両者は密接に関わっていて、文字(必ずしも視覚に依らないので言語とも言える)によるコミュニケーションを取ることができなければ、記号を用いた数学式は解けないと考えていたからです。

 

私は、学習塾でよく言語に関する話しをしました。授業という形ですることもあれば、雑談の形ですることももちろんありました。難解な話題の日もありましたし、ざっくばらんな話もしました。

読書の話しもしました。

当時は、携帯小説がとても流行っていて、中高生の女の子は特にみな夢中になっていた気がします。とても良いことだと思いました。(当時の上司にあたる講師は紙の出版物信者だったので否定的でしたが)

また、お友達同士でお手紙の交換をしている生徒も多くいました。交換日記は下火だったかな。。。と記憶しています。どれも、とても大切なステップだったと思います。

ここのところ、面と向かったコミュニケーションとそのほかのコミュニケーションについて多くの人が感じることがあったと思います。テレワーク中のweb会議、メールのやりとり、多数の人は対峙するコミュニケーション以外は元々不得手なのだと思います。語弊がありますね。十分ではない、というべきかも知れません。だから、常に、これからも、ずっと訓練が必要なのだと思います。

学習塾の子供たちは、ちょうどそういった意味で読書の過渡期にいて、集中力がついてきて本を読めるようになった子、お手紙交換をするうちに語彙力が増え、読書が好きになった子、数学の問題集を解くうちに文章の読み方が身について、本を読めるようになった子、読書との出会いを迎えた子が多くいたように思います。

生徒という存在を客観視して、初めて「読書との出会い」に触れられた(意識できた)気がします。

 

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さて、それでは私はどうだったでしょう。

私は、絵本を読むことが大好きで、一人っ子だったことも関係しているのか、いないのか、数少ない一人でできる「遊び」として多くの時間を使っていたのだと思います。

 

幼稚園の年中の夏の日、推薦図書として購入してもらった「ピッキーとポッキーのかいすいよく」は、鳥瞰図的な引きの絵が大好きで大好きで、何度も何度も読み返しました。

 

小学校に入学すると、表紙が気に入って(いわゆるジャケ買いですね)「わかったさんのアップルパイ」を買って、実際にパイを作りました。同じ低学年の頃には、「かいけつゾロリ」シリーズも読み切っていたかと思います(いまも、新作が出ていますね)。

 

小学4年生の時、母の寝室で素敵な表紙の本を見つけました(またしてもジャケット重視ですね)。

吉本ばななさんの「TUGUMI」です。

母に読みたいとおねだりしたら、このボリュームの本を読めるかどうか、先にこっちを読み切ったら貸してあげる、と言われてムーミンシリーズの「小さなトロールと大きな洪水」を買ってもらいました。(文庫で、とても薄いものです)

思いの外、ムーミンシリーズが面白くて、このまま連続でシリーズを読み進めました。

もちろんTUGUMIへの情熱も消えていなかったので、その夏に読みました。

 

今までに読んでいた本より、「怖い」と感じたのを覚えています。ファンタジーではなかったからだとも言えます。でも怖いことほど、好奇心を高めるものはありません。また、登場人物がみな魅力的で、私はすぐにつぐみのような女の子になりたいと思いました。(ご存知の方が多いと思いますが、つぐみは内面のみならずその相貌自体も美しく、私のイメージとはかなり違うのですが)

この後は、吉本ばななさんの本を連続して愛読するようになり、新作が発表されると母が買ってきてくれるようになったことも、とても嬉しかったです。

 

私は、漫画を読むことが苦手でした。苦手というより、周囲の友人よりかなり時間がかかっていることが気になり集中出来ない節がありました。紙面上の些細な効果文字などもすべて読まないと気が済まなかったので、ストーリーだけ攫うという読み方が出来なかったことが原因かもしれません。

それでも小学校の高学年になる頃には、そういった傾向もなくなり(というより読書スピード自体がかなり向上していたので)、「セーラームーン」を愛読していました。

小学5年生で「セーラームーン」は稚拙だったかもしれませんが、恋愛模様は大人のそれでしたし(ちょっとバブリーだったけど)アルバイトや進学、研究職、多く登場する天文の話し、どれもがとても素敵でした。

 

中学校へ進学すると、ガルシアマルケスサリンジャーなどを読むようになりました。リアリズムの中に、永遠に続く靄のようなムードがあるものが好きでした。

伊藤左千夫島崎藤村谷崎潤一郎、など文学史に名前の出てくるようなものはこの時期に読みました。砂の女を読んで、中学生の私が頭を悩ませたのを覚えています。

 

高校へ進学すると、読書する時間があまり取れなくなって悲しかったのですが、それと裏腹に私の高校にはとても立派な図書室(というより、別棟でしたので図書館という趣きでした)がありました。そこでいつも自分のサリンジャーの「フラニーとゾーイー」を読んでいました。

山田詠美さんの「蝶々の纏足」を読んだ日は、図書館に夕日が差し込んでとても暑かったけれど、一気に読み切ったのを覚えています。

 

母がスティーブンキングや桐野夏生さんを愛読していたので、雑食の私は、それらもすべて読みました。

 

どの本もいつも面白く、私を形作る要素になっていると思うのですが、やはり思春期、とりわけその初期に読んだTUGUMIは「私の一冊」だと思います。

 

今は遅ればせながら東野圭吾さんの本をひとつずつやっつけています。